「私の海外駐在記 ー インドネシア 前編」
パナソニック株式会社 菅沼一郎

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No.667 2020年1月

新年最初の海外駐在記は、パナソニック株式会社・アプライアンス社QAFL 事業推進室、菅沼一郎氏の駐在体験(前編)をお届けします。インドネシアでの駐在記を2号にわたり掲載いたします。後編はこちらから


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ドイツ駐在記(パナソニック 小林様)
インド駐在記(日冷工 波多野)
中国駐在記(日冷工 大井手)
ブラジル駐在記 (日立JC 佐々木様)
台湾駐在記(荏原冷熱 勇様)
中国マレーシア駐在記(日冷工 長野)
ロンドン駐在記(日冷工 笠原)
ノルウェー駐在記(日冷工 坪田)


1. はじめに
この会社に入って35年8カ月が経ちました。この間100を超える国々に出張させて頂いた私も、駐在となると2か国のみです。インドネシア(1985-1987、2003-2017)とマレーシア(1996-1999、2017-現在)に各々2度です。今回は、最も長かった2度目のインドネシア駐在時のお話をさせて頂きます。


写真1:パナソニック 菅沼氏



2. 親日国インドネシア
世界に親日国と言われる国は多々あります。台湾、ミャンマー、トルコなどがその代表でしょうか。しかし、草の根レベルでの親近感と言えば、やはりインドネシアも間違いなくトップ5に入る国です。

第二次大戦終了後に、国軍と一緒になって対オランダ独立戦争を戦った旧日本軍兵士が1000名を超えることは有名ですが、他にも遠く南洋で亡くなられた日本人は数知れず、今も慰霊祭が、現地日本人社会では官民合同で春と秋、年二回行われています。

近年では、2008年の国交樹立50周年や、2013年の55周年、2018年の60周年記念行事が盛大に行われ、我々民間も数多くの行事に参加しました。また、日本でAKB48が社会現象になったときも、海外グループとして、JKT48が海外都市の先陣を切って2011年11月に設立されたことは記憶に新しいものです。



写真2: JKT48メンバーと大使公邸にて



ドラマ「おしん」が1980年代から何度も地上波で放送されたり、五輪真弓の名曲「心の友」を誰もが口ずさむことができるというのは、いかにインドネシアの人々にとって、日本文化が近い存在であるかを表しているでしょう。


3. 赤い糸
両国の関係を語るとき、インドネシア語で、「Benang Merah(ブナンメラ)」(赤い糸)という言葉がよく使われます。日本語の男女間の絆で使う「赤い糸」とは意味合いが違うのですが、国交樹立50周年や55周年の活動を通じて、また、地震国である両国は2004年22万人が犠牲になったアチェの地震と津波、2006年の中部ジャワ地震、2009年の西スマトラ・パダン沖地震、そして2011年の東日本大震災と両国が被災を経験するたびに相互に大きな支援を行い、国と国、地方と地方、人と人の繋がりが出来たことで、この言葉は、両国の特別な関係を示す言葉に変化していったような気がします。2011年3月、東日本大震災の直後に、日本の東北3県向けに弊社製乾電池8トンを、商用荷物を後回しにしてまで、無償で運んで頂いたガルーダ・インドネシア航空には、今でも本当に感謝しています。こうした1つ1つの積み重ねが両国の関係を築いていると思います。


4. 深い絆
インドネシア各地には、日本の戦後賠償、そして、その後長きに亘って世界でも有数のODA対象国であったため、至る所に、友好の証のようなホテル、橋、道路等々インドネシアと日本を繋ぐ人々と活動が人知れず存在しています。個人でも、日本では芸能人であるデヴィ夫人(スカルノ初代大統領第三夫人)が有名ですが、様々な有形無形の関係が多くの両国民を草の根レベルで繋いでいます。国交樹立50周年(2008年)、55周年(2013年)、60周年(2018年)は、官民挙げての多くのイベントが行われました。そうした活動の中から生まれたジャカルタ・ジャパン祭りや、縁日祭、絆駅伝等は、毎年継続的に進化しながら実施されており、こうした文化的な交流が増えることは、ともすれば経済一辺倒になりがちな両国のつながりに明らかな深みを与えています。



写真3: 絆駅伝でのコスプレチーム




写真4: 絆駅伝スタート前。大使・JKT48と



5. CSR
このような環境でしたので、必然的に私も在任中、常にCSRを意識していました。1970年に始まった国際交流基金の「日本語弁論大会」を現地法人が会社として第1回から後援させていただいたのが最初でした。毎年、高校生の部全国大会、一般の部ジャカルタ大会、一般の部全国大会の審査員をさせて頂きました。年に3回土曜日に大会を行っていますが、ここでの交流は本当に楽しいものでした。それが高じてインドネシア大学・他での授業を引き受ける機会も4回ありました。いつも決まって「松下幸之助の理念」について90分ほどインドネシア語で講義させて頂いていたのですが、学生たちの真剣な眼差しと鋭い質問に、頭を悩ませたのが昨日のことのようです。



写真5: 日本語弁論大会審査員




写真6: ブディ・ルフール大学にて授業

 


また、日本本社が創業90周年(2008年)に、ソーラーランタン10万個を世界中で配布することになった時は、真っ先に手を上げ、2009年からの8年間で、11,084個をインドネシア各地の電気の無い村々にNPOと一緒になって配り、訪れた村の人々から電気のある暮らしの大切さを教えて頂きました。その経験もあり、日本大使館の草の根ODAで、非電化地域へソーラー発電システムを設置したときにはいつも村の人々と交流を持つようにしていました。世界遺産のウジュンクーロン、ジャワ島北のカリムンジャワ、バンドン奥地のマラバール、スンバワ島のララックロンゲス村、行くだけでも大変な場所ばかりでした。それでも、脱輪した4輪駆動を村人総出で引っ張り上げてもらったことや、初めて電気を使った小学校で248人の児童の瞳の輝きを見たことなどを思うと、ソーラー発電システムを寄贈する式典が終わるや否や、「まだまだ、次はいつ、どこに?」と考えずにはいられませんでした。


写真7: ODA ムラバールでの太陽光発電設備




写真8: ODA ララックロンゲス村での電気・水




6) スポーツ交流
インドネシアでスポーツというと、バドミントンと思われがちです。確かに地方に行けばどこでも街角でやっていますし、ドライバーから子どもに至るまで、皆さん大変上手ですが、サッカーも大変な人気ですし、女子の重量挙げでオリンピック金メダルを取るなど、バドミントン以外のスポーツも盛んです。私のいた会社でも、毎年スポーツ大会が行われました。日本と違うのは、競技の中に、カラオケ大会や「Poco Poco (ポチョポチョ)」(民族舞踊)など、独特なものが入っていることです。




写真9: ガンバ大阪サッカークリニック



2013年に大相撲ジャカルタ場所の招聘を協賛させていただいてから、新しいスポーツの可能性を感じたので、2014年からゴルフ大会を主催したり、2015年には2014年の国内3冠を達成した日本のJ1のサッカー・チームをジャカルタに招いたりしました。今年ワールドカップで人気になったラグビーも2016年から社内のトップリーグの選手に出張してもらい、ジャカルタの日本人学校で、土曜日に特別スクールを開催してもらったりもしました。そうしたイベントの中でも特に思い出深いのは、2011年の東南アジアスポーツ大会(SEAゲーム)のスポンサーをしたことでした。開会式から閉会式まで、全ての競技が本当に盛り上がりました。国立競技場でのマレーシアと競ったサッカー3位決定戦での熱狂は、正にスポーツは人々を一体にすることを実感させられるものでした。


写真10: 大相撲ジャカルタ場所




写真11: 東南アジアスポーツ大会聖火リレー



以上次号(No.668)へ続く

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