「私の海外駐在記 ~台湾~ 前編」荏原冷熱システム株式会社 勇裕章氏
No.658 2018年7月
今回の海外駐在記は、荏原冷熱システム株式会社の取締役専務で当工業会の副会長、勇裕章氏の駐在体験を掲載します。台湾での駐在記を二号にわたりつづっていきます。後編はこちらその他海外駐在記はこちらから
■ドイツ駐在記(パナソニック 小林様)
■インド駐在記(日冷工 波多野)
■中国駐在記(日冷工 大井手)
■インドネシア駐在記(パナソニック 菅沼様)
■ブラジル駐在記 (日立JC 佐々木様)
■中国・マレーシア駐在記(日冷工 長野)
■ロンドン駐在記(日冷工 笠原)
■ノルウェー駐在記(日冷工 坪田)
1.はじめに
荏原冷熱システム株式会社の勇 裕章(いさみ ひろあき)です。
1985年に荏原製作所は半導体関連事業に参入するため全社プロジェクトを立ち上げ、小職もプロジェクトに参加することになったのが海外駐在することになったきっかけです。
当時は日本の半導体メーカが世界のシェアランキングの上位を占め、半導体事業全盛の時代でもあり国内事業中心の企業活動が展開されていましたが、急速なグローバル化の波が押し寄せDRAMであれば韓国メーカ(三星電子、LG電子)にシェアを奪われるようになっていきました。
半導体業界は、投資の浮き沈みが非常に激しく業績も安定しませんでした。それでもゼロからの出発であったため、それなりの実績を上げ、事業部から社内カンパニーの精密電子事業カンパニーへと格上げになりました。その中で台湾の半導体メーカは、自社ブランドではなく相手先ブランドの製品を供給するファウンドリ事業として伸びていきました。
私はこの半導体事業に24年間従事し、その途中の2005年4月から2008年3月まで3年間を台湾で総経理として駐在していました。
その期間の出来事、生活状況等のお話しをさせていただきます。
2.仕事の状況
半導体製造用の装置本体はクリーンルーム内に設置し、半導体ウェハは高い空気清浄度が求められる真空チャンバー中で製造されるため、非常にごみを嫌います。
その対策として油の逆流がしにくいドライポンプを開発し、販売をスタートしました。その後、半導体製造装置へと製品ラインナップを広げていきました。
写真1:台湾地図
台湾の現地法人は、『台湾荏原精密有限公司』といい、アフターサービスが主要業務でしたが、加えて荏原製作所の製品販売代行業務も行っていました。本社事務所は台北にあり、修理工場は中部地区の湖口に、その他サービスショップは、赴任中の終盤には「新竹、林口、台中、台南」の4か所に開設しました。
ドライポンプは半導体工場で使用される台数が多いだけでなく、使用環境が厳しい為(ポンプの中に多くのスケールが蓄積されます。)、平均すると1年に1回のオーバーホールが必要となり、1か月に200台以上のオーバーホールを請け負っていました。半導体製造装置も24時間フル稼働の為、消耗品もたくさんあり、半導体を製造する為には、イニシャルコストもランニングコストも掛るものだとつくづく感じていました。
写真2:湖口工場の写真
その頃の台湾ではアメリカや日本の技術供与を受けたファウンドリ会社の工場建設ラッシュが起こっていました。
極端にいいますと、毎月どこかの会社の竣工式に出席し、台湾の伝統芸能である獅子舞を見ている状態でした。苦い思い出としてですが赴任当初は、中国語がわからないのに総経理であるがため、P/LやB/Sを見せられ、英語の併記もないなか、現状把握するのが精一杯で苦労の連続でした。
また、赴任して数日後いきなり若手台湾人の結婚式に招待を受け、スピーチの一部をたどたどしい中国語で行い、残りは日本語で話し、新郎に通訳をお願いしました。なんと800人もの招待客がいて、なかなか式が始まらないことと、後半は三々五々勝手に解散していくのを見て、文化の違いを感じると共に赴任後最初の大きな驚きと緊張を強いられる一日となりました。
台湾の正月は中国と同じく『春節』といい、年により時期が変わり、1月の下旬から2月の上旬より始まり約2週間の休みで、台湾人の方も故郷に帰省する習慣になっています。その春節休暇前に、会社では盛大な忘年会を行います。
従業員による演劇、歌やコントで盛り上がります。そんな中で一番怖かったのは、乾杯です。私の前に長蛇の列ができ、延々と乾杯を続けるのです。一人が終わると、その従業員は最後尾に並び、いつまでたっても終わりません。最初は、すべて飲み干していましたが、さすがに身が持たないので途中からは舐めるように口をつけるだけにしていました。それでも前任者からの恒例で乾杯は赤ワインであったため、まだよかったほうです。一応これも総経理の仕事です。
3.生活状況
私は、前任者の借りていた3LDKの広々としたアパートにそのまま入居したため、既に日本から持ち込んであった炊飯器、ウォシュレットなどは引き継ぎ、食器洗浄機、お皿なども揃っていてあまり不自由はありませんでした。ですが元来、日本でも料理をしたことがなかったのと、近くに日本人が多く住み、台湾人が経営している日本食の居酒屋があり、当然のように入り浸っていました。そこで知り合った色々な企業の日本人駐在員とビール片手に会話をしながら食事をとるのが楽しみでした。
当社の私以外の日本人駐在員は、全員工場のある湖口か新竹の事務所にいたため、仲間を社外で見つける必要があったことが拍車をかけたようです。
写真3:アパートの写真
そのお店では日本人駐在員が日本に出張したら、日本の食べ物をお土産に買ってくる習慣になっていて、台湾人のおかみさんは、馴染みのお客さんには、誰々さんのお土産よと言って、よくおつまみとして出してくれました。ついつい夕食に訪問する回数が増え、週の半分くらい顔を出すこともありました。
また、散髪、買い物、飲み屋等の情報源として重宝していました。さらに休日のゴルフ、バトミントン等の仲間も増えたため単身赴任の解放感もたっぷりで1年目は充実していました。但し、2年目になると、1年目に感じた刺激よりも寂しさがこみあげてくるようになり、お酒の量も増えていたと思います。
台北に住んでいると、本場中華料理も美味しいものがたくさんありますが、一人だとたくさんの種類を食べられないため、出張者が来ると付き合ってもらって食べにいくことが楽しみでもありました。
また、慣れてくると近くに三越があるので自炊のために食料を仕入れに行くこともありました。納豆などの日本からの輸入品は、日本の価格の3倍ととても高く、ただ、生卵だけは安いのですが、冷蔵していなくて、賞味期限が30日もあって大丈夫なのかなと心配になりました。聞いた話では台湾の方は、卵を生で食べる習慣がないとのことで納得しました。万が一のことも考えて、よく行く居酒屋が地卵を仕入れて使っていたため、行く度に2-3個分けてもらい生卵かけごはんを楽しんでいました。